棚守房顕覚書49 義隆、陣を大野門山に進める

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棚守房顕覚書49 義隆、陣を大野門山に進める

天文10年(1541年)3月18日。岩国から門山(=廿日市市大野)へと御陣を寄せました。房顕は大野へ参上することになり、具足を25、6…このうちカタトリ具足は7、8領で、渡海し、弘中正長へと加えてもらいました。そのことを屋形(=大内義隆)も聞いて、その他の防州の衆と房顕にご褒美がありました。棚守は殿原(トノバラ=指導者)と小者(=身分の低いもの)、中間(=武士の最下級で小者の上)の十人ほどで、巻数(=目録)と御太刀ばかりで参上しました。
3月19日。代官(=大内の代わり)として越中守(=弘中正長)が神社に参詣しました。神に捧げる神物は御太刀二つ、神馬一匹、料10貫文でした。
同日(3月19日)、桜尾(友田の居城)の山を見ようとして、防州の衆は七尾(=廿日市の地名)に取り登り、引き際に内藤彦次郎、熊野藤右衛門尉、宮川大蔵太輔、そのほかの衆徒の周防衆が10人ばかりが討ち死にしました。弘中三河守(=弘中隆包)が帰って来なかったら、悉く討たれただろうと、後日に評価された。

解説

廿日市大野は厳島神社から見て西。ちなみに友田が居る桜尾城は東。
3月18日。大内義隆は、友田を討ち取るために廿日市の大野まで近づいた。すると棚守房顕は具足…つまり防具を持って弘中正長の元に加わった。当時は戦争は神によって左右されると考えていたわけですから、厳島神社の神主の棚守房顕が防具を持って加わるってのは、かなり心強いことです。まぁ、完全に大内の庇護を受けている棚守房顕にとっても、大内が負ければ、遅かれ早かれ当然、友田に殺されるでしょうから、必死です。
それで棚守の行動に大内は喜び、褒美があった。大内としては戦神である厳島神社の神が大内を守ってくれるって感覚ですね。

弘中正長の参詣

翌日3月19日には弘中正長が厳島神社に参詣した。
その3月19日に桜尾城が見える「七尾」に向かったが、そこで敵襲を受けて十人ほどが死にました。しかし、弘中隆包はどうにか逃げ延びて、地形情報をもたらした、ってところまでです。ちなみに弘中隆包は陶隆房(のちの陶晴賢)と共に大内義隆に謀反を起こして殺し、毛利元就に陶隆房もろとも厳島合戦(1555年)で殺される人物ですが、忠節と知勇をもつ人物。七尾の一件はさすが!と言うべきでしょうね。この時、20歳前後です。
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