棚守房顕覚書44 厳島鳥居沖の戦

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棚守房顕覚書44 厳島鳥居沖の戦

宮島はこれ(尼子が敗北したこと)を知りませんでした。防州衆の兵糧以下は島の中に満々とありまして、警固の部隊へ桜尾から(兵糧は桜尾へ)遣わされるべきとの由がありました。

天文10年(1541年)1月15日。防州の警固船2、300艘、黒河兵部少輔隆尚(黒河隆尚)を大将として宮島に上陸しました。野島・来島の船30艘あまりが、取るものもとりあえず乗船して、船を向けて、鳥居の前で戦いました。沖の船は下り、防州の警固船は大きな船でしたので後ろから追いかけて、桜尾の被官(=下級官僚)衆は廿日市に逃げて退却した。房顕は小舟で大野の沖まで黒河殿を迎えに参上し、黒河隆尚の船を5、6艘で登り、宮島を占拠し、防州衆は島の兵糧を一円に散らしました。

解説

毛利は以前は尼子と手を組んで大内の鏡山城を攻め落としたのですが、毛利は尼子を裏切り、大内の傘下に入りました。それで尼子は裏切りの報復として毛利元就の吉田郡山城を尼子が攻めました。尼子は3万毛利は3千ほどの大差。毛利は善戦しますが、さすがにこのままでは負ける。そこで大内は岩国に軍を敷いて、陶隆房を毛利の応援に向かわせます。当然、大内も毛利の援軍に向かう予定だったのですが、なんと友田興藤が謀反し、宮島を占領。これで大内は陶の援助に迎えない。当然、毛利と陶は負ける…そう考えて居ましたが、さすが西国一の侍大将と呼ばれる猛将の陶隆房。なんと尼子を蹴散らし、尼子は撤退したのです。

友田は尼子の敗北を知らない

尼子の敗北が決定したのが1月12日の夜半。
桜尾城の友田と関係者は「当然、毛利と陶は敗北した」と考えていた。つまり友田の勝利。尼子が負けるとは思わないですよね。よって、宮島に備蓄していた兵糧を友田たちが取り上げようとした。
ところが1月15日になると大内の家臣の黒河隆尚が2、300艘の船で宮島にやってきた。野島・来島は村上水軍のこと。彼らは友田に協力していたのでしょう。彼らは黒河隆尚を鳥居のあたりで迎え撃った。しかし、村上水軍は30艘あまりだったものだから勝てっこない。村上水軍は宮島を放棄した。宮島に上陸していた友田の下級官僚は廿日市に逃げた。

宮島の兵糧
そして棚守房顕は黒河隆尚の元へと船で迎えに行き、大内側が宮島を取り返した。宮島の兵糧はどうやら大内が得て、軍が接収したよう。「1円に散らした」ってのはそういう意味だと思われます。

疑問点

宮島には兵糧がある
宮島に兵糧があった。これは結構大きな問題です。宮島は軍事的な拠点でもあったのでしょう。桜尾(友田)が「棚守房顕覚書42 神主家の滅亡とその後の大内氏」の中で宮島を占拠したのは、兵糧を抑える意味があったのでしょう。しかし、大内の軍隊の食料を補うほどの兵糧を保持する場所があったのなら、どこなんでしょうか。
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