棚守房顕覚書37 房顕岩国に義隆と対面

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棚守房顕覚書37 房顕岩国に義隆と対面

大内義隆から再々(大内の陣へ)尋ねなさいと弘中正長越中守は房顕の使者に書き渡していたのですが、その頃の世間の状況から、ためらって(陣へ)参上しませんでした。それで隠れて、受諾したと申し上げて、天文9年(1540年)10月11日に弘中正長の(領地の)一所の石津藤四郎を差し向けてきたので、一緒に罷り(=命じられて)下りました。宮島島内では、隠れて行くべきだという声があったので、島を夜に紛れて岩国に下向することにした。といっても、まだ桜尾城の衆たちが出入りしているので、そう簡単に隠れて行けるものではない。
天文9年(1540年)10月13日に(大内義隆と)対面しました。参上したことが御祝著(=喜ばしいこと)であると思われたようで、御太刀1腰と千疋をくださりました。その時の立願に神前の御簾蔵経、厳島の往古からの御祭礼事の古例は断絶のところを馳走(=復活させるために努力すること)するべきだ、と言いました。房顕は帰島しました。

これまでの経緯

友田興藤と小方が東西に別れて争った頃、厳島神社は早々と友田と反対側の東につきました。そこでいざこざ(合戦)がありました。その後は友田が厳島神社の神主を自称し、大内と合戦します。結果、友田興藤は神主を辞職し、甥っ子(息子という説もある)の藤太郎が神主を引き継ぎます。この藤太郎が病死すると、興藤の兄弟の友田広就が厳島神社の神主になります。大内と友田は痛み分けともいうべき状態です。
友田兄弟は桜尾城にこもり、表面的には大内との敵対は沈静化しているのですが、厳島神社の神主でありながら、宮島とは微妙な関係なんですよね。宮島は友田を支持していない。それに友田は厳島神社の運営には関わっていない。神社の大事な儀式である「神衣祭」にも関わらなかった。

棚守の立場
神主がいるのに、実質不在という奇妙な状況で、厳島神社の現場と大内や毛利を結んでいたのが棚守房顕でした。棚守は実質の厳島神社の権力者であり現場責任者なのです。そんな棚守に大内義隆が「会いたい」と呼びせた。しかし、宮島と桜尾城はすぐ近く。桜尾城の連中に見つからないように、岩国に向かわなくちゃいけない。だから「夜に忍んで」海を渡って向かった。

大内の姿勢

そこで大内義隆から品をもらった。この品は「神へのお願い」のための奉納品です。房顕は神官として呼ばれたのです。そして大内としては「御簾蔵経」が願いだった。平家納経のことかもしれない。平家納経を閲覧したかった。厳島神社では宝蔵の品を見るには「くじ引き」をして神慮を図る。神慮に叶った時だけ、閲覧が可能になります。品を収めるのはある種の神様のご機嫌を伺うもの…賄賂という言い方も可能ですね。

それに、古い祭礼を復活させなさいよ、と大内は言った。棚守房顕からすれば、祭礼に一切興味を持たない形だけの神主の友田兄弟よりも、大内こそが「権力者」としてふさわしいと考えたはずです。
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