棚守房顕覚書34 大内義隆父子の出陣

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棚守房顕覚書34 大内義隆父子の出陣

前の厳島神社の神主の藤原興親が永正5年(1508年)辰の年に死去して以後、神主職の断絶は、辰年から大永3年(1523年)未年まで16年。上野介(=友田興藤)が新しい厳島家の建立した大永3年(1523年)未年から天文10年(1541年)丑年まで19年です。

大内左京大夫義隆(大内義隆)と一条恒持(=大内晴持=大内義隆の養子)の親子とその他の人たちと天文9年(1540年)子の年1月9日。防府まで出張しまして、次第次第に上ってきました。尼子の石州(=石見)まで出張し、天文9年(1540年)子の年9月4日に吉田(毛利)の青三井(=青光井山=安芸高田市吉田町)に至り、陣取りにかかりました。
大内義隆と一条恒持の親子は岩国に出張しました。陶隆房、そのほかに杉、内藤の諸勢は天文9年(1540年)10月4日、警固船二、三百艘で宮島に参詣しました。陶隆房は棚守の宿に引き渡し、ただ一言ですぐに乗船しました。その夜は在ノ浦沖に船でかかり、未明に海田(=安芸郡海田町)に到着しました。
隆房は神前の儀式で、両社に御太刀2振り、御神馬2匹をお供えして参られたました。名代(=代理)として伊加賀対馬守(=伊香賀隆正)を残して置いて社詣しました。
海田から中通りをうち登り、吉田の白豆(住吉山・大元山・柿原田??)の峠に陣を取り、毎日合戦をしました。

厳島神社の神主の不在

前の厳島神社の神主の藤原興親が死亡してから神主の断絶が16年。その後は友田興藤が神主になったのですが、十分に神主として活動していたとは言い難い。単に権力を握って神領で勝手なことをやっただけ。棚守房顕の見解だと、これは実質35年もの間、厳島神社の神主が不在だったのと同じだ!と言いたいわけです。

大内の事情

大内義興が死亡し、その息子の大内義隆が後継となりました。大内義隆は跡を継いだ時に22歳。戦国時代としても、これまでの大内家としても、かなり「すんなり」跡を継ぎました。大内家はいつも代替わりで揉めていたんですよね。大内義隆は当主となってからしばらくは、戦国大名っぽく「合戦」をするのですが、養子に迎えた一条恒持(=大内晴持=大内義隆の甥)が後に死んでしまうと、すっかり「合戦嫌い」になりまして、徐々に弱体化します。それは置いておいて。

大内晴持(一条恒持)
大内義隆は、養子の大内晴持を溺愛したよう。大内晴持は一条家に嫁いだ大内義隆の姉の子。つまり甥っ子です。これが美少年で、和歌・管弦・蹴鞠という公家文化に通じ、なおかつ武力もあったとか。大内といえば京の文化を愛した家。公家の血を引く甥っ子を愛したのは、そういう「公家の血」という事情もあるのではないかと思います。
●大内義隆は衆道(同性愛)関係を持つことで有名な武将。もしやすると、この甥っ子の大内晴持(一条恒持)ともそういう関係だったのではないか?…と考える人もいます。

さて、厳島神社の参詣した陶隆房は、「棚守房顕覚書28 陶興次の帰国」で父親との別れで周囲の大人たちを泣かせた美少年。その陶隆房が棚守房顕の家に泊まった。うーん、棚守房顕もゲイっぽいな。ただ、当時は同性愛がそれほど珍しくない時代ですから、仮にそうであっても、そんなものだと思います。

ただ一言で

陶隆房は「ただ一言で船に乗った」とある。これがどういう意味なのかはなんともいえないんですが、棚守はどうも武将・大名に女を世話していたようで、陶隆房は女を「欲しい」と言わなかったという意味ではないか?と思いますが、まぁ、なんとも言えないですね。
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