棚守房顕覚書32 大内義興の帰山と逝去及びその後

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棚守房顕覚書32 大内義興の帰山と逝去及びその後

一、陶興房は大永3年(1523年)未の年の8月から安芸国に在陣していました。大内義興親子(大内義興+大内義隆)は大永4年(1524年)申の年6月に宮島に着眼しました。大永5年(1525年)酉の年は島で年を越しました。大永5年(1525年)酉の年から享禄1年(1528年)子の年の3月26日までは門山の城に居ました。
左京大夫義興(=大内義興)はご養生している間、佐東の毛利の鹿籠の陣から、陶・野田・右田・杉・内藤らを7月14日に宮島に向かわせました。門山から杉民部入道、右田右京亮は渡海しまして、西の回廊で談合しました。
屋形(=大内義興)を山口へ帰らせるべきであると議定がありました。
それで厳島興藤(=友田興藤)の兄の子の藤太郎が病死したので、舎弟(友田興藤の弟という意味)の四郎を掃部頭広就(=友田広就)と号して、8月20日に陶尾張守(=陶興房)は調整して、大内義興に掃部頭広就(=友田広就)と対面はさせなかった。大内大夫殿(=大内義興)は山口へ下向しました。その享禄1年(1528年)子の年の12月20日大内義興は遠行しました(=死亡したという意味)。凌雲院がそれです。

大内義興の死

タイトルの「帰山」は「山口に帰る」の意味。大内義興は52歳で死去。この後、宮島に一緒に来ていた息子の大内義隆が跡を継ぎます。その大内義隆は後々には陶興房の息子の陶隆房(陶晴賢)に謀反を起こされて自害に追い込まれます。その陶晴賢を殺して安芸国の統治者となるのが「毛利元就」です。その変遷の全てを棚守房顕は見ていた。

天下人、大内義興
さて、大内義興は覚書の中でも触れられていましたが、京都に上洛し足利義稙を将軍に据えました。つまり将軍を左右する人物だったわけです。天下人です。ところが厳島神社の神主の後継ぎを巡る混乱を鎮めるために山口(周防)へ帰国。その後は友田を追い詰め、ついには和議を結ぶのですが、そう言う移動の負担がキツかったのか、広島の門山で病に伏してしまい、部下たちの話し合いによって帰国します。帰国後ちょうど四ヶ月で死亡。長命とは言えませんが、敗戦によって死んだのではない以上、俗に言う「畳の上で死ねた」わけですから戦国大名としてはかなり恵まれた一生だったと思いますね。

陶興房の判断

この時点では友田は神主を辞職し、甥の藤太郎に譲っていたのですが、その藤太郎が死亡。そこで友田興藤の弟の友田広就を厳島神社の神主に就任させました。しかし、陶興房の判断でその友田広就を大内義興に対面させなかった。おそらく友田広就の就任は大内義興にとって「不満」であろうことが分かっていたのでしょう。激昂させて病状を悪化させてはいけない。就任はさせたが伏せて帰国させた。相当に病状が悪かったってことでもあるし、就任させたことが、相当に苦肉の策であったということでしょう。
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