棚守房顕覚書28 陶興次の帰国

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棚守房顕覚書28 陶興次の帰国

陶の次郎興次(陶興次=陶隆房=陶晴賢=陶興房の子供)は陶興房と同じ様に陣に居たのですが、生気を養うために大永5年(1525年)3月18日に先に陣に帰りました。岩戸(廿日市佐方)から船で陶興次は下向して陶興房も沖まで送り渡らせました。島からは弘中越後守(=弘中武長)とその他の警固衆たち、棚守房顕も船の中まで参上しました。その時、陶の父子は別れ、弘中武長をはじめとして落涙しました。あわれなことでした。

兄弟で大内の毒牙に…

陶興房には第一子に「陶興昌(陶義清)」が居たのですが、父の興房に殺されたとも、戦争で死んだとも言われています。この辺りはハッキリしません。この陶義清・陶隆房の兄弟はかなり美少年であったと言われていて、兄の陶義清は大内義興の、弟の陶隆房は大内義興の子の大内義隆の「寵童」であったとされています。寵童とは、肉体関係を含んだ主従関係のことです。
●兄の陶義清は当主、大内義興の男色相手の誘いを断ったことで、揉めて父の陶興房に殺されたとも言われています。「当主には武勲でつかえるもので、男色相手でつかえるのではない!」と。
●兄が男色でもめて殺されたことがあったから、なのか、陶隆房は大内義隆の男色相手をすんなりと勤めている。

そんな美少年の陶興次(陶隆房)が、父と別れて帰国するという時に、立ち会った人たちが皆、涙を流したというのです。ところで陶興次(陶隆房)は1521年の生まれで、当時は14歳。これは当時の感覚でいえば、涎が出るほど「美少年の適齢期」です。

日本の同性愛

日本には伝統的に同性愛を否定する理屈がありません。キリスト教や儒教やイスラム教やユダヤ教や仏教には「同性愛NG」で、キリスト教に至っては同性愛者は殺せと明記してあります。のちの話になりますが、大内義隆の時代にイエスズ会が訪れて「同性愛はやめろ!」と説教したとされます。

日本の同性愛はギリシャ式

日本の同性愛は現代の欧米の同性愛とはちょっと違います。日本の同性愛は男と男の愛ではなくて、男と少年の愛で、古代ギリシャの同性愛に近いものです。成人が幼い美少年と肉体関係を結び、精神的に繋がって、主従関係を結ぶわけです。少年愛を注ぐ対象としては前髪がある年齢まで。前髪を剃り上げると普通はこの少年愛はおしまい。これが社会に制度としてあるわけですから、社会全体に「美少年は性対象」という感覚があったってことです。美少年の陶興次(陶隆房)が父との別れに心を痛めている様子は、それはもう「アワレ」なんです。いや、「萌え」かな。
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