棚守房顕覚書25 大内義興父子の滞在と社参

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棚守房顕覚書25 大内義興父子の滞在と社参

大永5年(1525年)酉の年越しは大内義興の父子は宮島に居ました。
陶の(部下の)内野上右馬助は防州(山口県)の守護でしたので、12月28日から渡海し、同じく陶の(部下の)深野文祝、河内山図書力竹などという者は、棚守の宿所で越しました。大番興房(=陶興房)の元旦の宿をこしらえたのですが、開けて大永5年(1525年)の元旦に尾張守(=陶興房)は岩戸陣から渡海して、その他の各々が出頭しました。
大永5年(1525年)1月26日。使者の弘中越後守(=弘中武長)が棚守房顕を呼び出し、明後日の1月28日に社参されました。前の年(大永4年1524年)の目録などを見ると仰られて(目録を)出しました。大内義弘・大内孝弘・大内政弘(大内義興の父)の三代が参詣した目録を閲覧しました。御神物は両社へ御太刀銘のもの、120貫文。社家三方(神官・内侍・僧)へ舞楽料、瀧ノ宮へ10貫文。弥山へ5貫文。神馬12匹。膝突12貫文。宮引、楽頭田道栄に20貫文。棚守が受け取り、配当しました。

1月28日に社参がありました。お座敷は神前の組入天井(=現在の祓殿)の脇の歌仙の間でした。雑肴御樽10折5合を、棚守房顕が進上しました。このお礼に30貫文をくださりました。坊の布施の100貫は岡の屋形からご参詣の間はありませんでした。

解説

大内義興・大内義隆の親子は宮島に。それだけでなく、大内の部下の陶の部下の弘中武長たちもやって来て、厳島神社にかつて参詣した大内の先祖3代の目録を見て、飾りのついた太刀を神社に奉納し、大金を納めた。問題は、大金を納めたことではなくて、このお金を棚守房顕が「受け取って」、神社の関係者に「分配した」ってところです。

大内と棚守が結びつく背景

大内は神社や様々な文化施設に援助する大名でした。
どうして援助したのかは置いておいて、大内はこれ以降、厳島神社を棚守房顕経由で援助するようになります。これまでは厳島神社には神領という神社の領地があったのですが、それは無くなっていき、大内の援助に依存するようになります。これは大内にとっては厳島神社の神主がこれほどの戦乱の火種になることを考えれば、厳島神社を援助してでも、神主の価値を消失させる方が得だという判断があったからでしょう。

だから棚守という本来は高くない地位の人物を仲介者にしたのですが、その最初の一歩が「棚守房顕覚書20 房顕陶尾張守と対面」で陶興房の御師となったことになります。ここで権力者と棚守は結びついた。
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