棚守房顕覚書19 厳島神衣祭

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棚守房顕覚書19 厳島神衣祭

そのとき、平良(=現在の広島県廿日市市平良=現在の速谷神社=当時の速田太明神)と厳島神社宮内の儀式は、神主の友田興藤にとっては敵であるので、神衣祭が断絶していたのですが、越後守(=弘中武長)が申し上げると、山口の大内義興へ言葉が伝わり、御供米(=神に献上する米)、そのほかの米銭が急いで調整されて、その年は御衣として綾が5端、絹が3疋、越前錦3把が貢調しました。

経緯と事情

西方の友田興藤が桜尾城で神主を自称して以降、城の取り合いがあり、越後守(=弘中武長)が宮島にやってくると宮島からは西方(友田側)が一掃されました。厳島神社厳島神社の神主である友田とは敵対関係になったわけです。すごい変な話ですが。

それで友田興藤と敵対した西方についていた速谷神社(当時は速田神社)と厳島神社で行われていた神衣祭が断絶していたのです。ま、嫌がらせですね。しかし弘中武長の計らいと大内義興の援助によって復活。神社なんて儀式やってなんぼです。儀式をやらない神社なんて意味がない。友田は東方に与した神社の儀式を無視した。これでは神主失格である、というのが棚守房顕の考えなのでしょう。

神衣祭

毎年1月1日に「御神衣献上式」というのが0時から行われます。これが「厳島神衣祭」の名残だと思います。ところで本来の神衣祭は伊勢神宮で行われていて、「神御衣祭(カンミソサイ)」と言います。伊勢神宮では5月と10月に行われ、衣を献上することによって天照大神の霊威が増す(というか回復する)ことになっています。個人的な見解ですが「機織り・紡織」が神の領域であるという感覚があったからでしょう。
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