棚守房顕覚書17 友田興藤自ら神主と称す

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棚守房顕覚書17 友田興藤自ら神主と称す

一、神主のこと、京都で前の神主の藤原興親が死去して以後、永正5年(1508年)辰の年から大永3年(1523年)未の年まで16年もの断絶があり、友田上野介興藤(=友田興藤)は大永3年(1523年)未の年の閏4月11日に武田光和やその他の国衆の援助を持って、桜尾城に入城して神主になりました。

己斐の城には内藤孫六、桜尾の城には大藤加賀守が居ましたが追放しました。石道(広島市佐伯区石内)の本城の杉甲斐守は廿日市の後小路で佐東衆に討たれ、友田興藤の被官の幡見十郎左衛門尉も討ち死にしました。

これまでの経緯

大内義興の帰国後は、友田・小方のどちらにも厳島神社の神主の地位を与えないで、彼らが立て籠もっていた城には城番を配置し、「とにかく戦乱を治める」という方針を取り、周防から兵士を派遣してニラミをきかせていたのですが、とりあえず戦争はなさそうということになって、軍は解散、ってのが前回までのあらすじ。

軍がいなくなったところで、不満が爆発したのは友田興藤はついに動き始めます。安芸武田氏の武田光和の援助を受けて、城から城番を追い出し、杉甲斐守は殺害。佐東衆というのは現在の安芸南区沼田の人たちのことです。
被官というのは、本来は「下級官僚」と言った意味合いですが、ここでは友田興藤の部下という程度の意味だと思います。

また戦乱へ

大内義興の帰国によって一度は落ち着いたかに見えたのですが、またもや戦乱に。ここで桜尾城に入り、神主になったということは、「神主=守護」という図式が当時の常識だったと考えていいでしょう。
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