棚守房顕覚書16 小方・友田の神主職愁訴と義興の神領経営

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棚守房顕覚書16 小方・友田の神主職愁訴と義興の神領経営

小方加賀守、友田上野介は京都に上り、大内義興とともに(周防に)下りました。神主職を両家ともに愁訴したのですが、主張を聞いても結論は出ず、神領(神社の領地)を大内義興が預かるものとして、己斐の城番を内藤孫六、石道本城(=水晶城=広島市佐伯区石内)の城番には杉甲斐守、桜尾城にはこの前任者の島田越中守を城番としました。それ以後は、前任者の神主の藤原興親は(大内の家臣の)陶の縁者ですので、陶安房守の部下の大藤加賀守と毛利下野守を城番としました。

その後、大永2年(1522年)午の年に防州(=周防国)から、佐東(沼田郡)に陶尾張守を大将として、豊国・筑紫・周防・長門・安芸・石見の全ての土地から残すところなく兵士を出張させ、佐東の藤九(地名)に陣取って、3月から8月まで陣にいたのですが、危険な兆候も見られませんでした。新庄(地名)の小幡は、伴(地名)の大場の親類縁者だったので、この要害の一箇所を手に入れただけで、陣を解散しました。

大内の考え

大内義興が帰国したのは棚守房顕によれば永正17年(1520年)。帰国後に東西の争いを止める対策として、どちらかに神主職を与えるのではなく、とりあえずは決定せず、両者が立てこもっていた城には、抗争とは関係のない人物を当てました。まずは冷静になれよ、ってことでしょう。ちなみに愁訴というのは「嘆願」ってことです。「神主職を是非、私に!」って大内義興にお願いしたわけです。

小方加賀守と友田上野介

東西の戦いは厳島神社の神主の座を前任者の藤原興親の甥の「小方加賀守と友田上野介」が争っている、ってことになってるんですが、当事者の二人は大内義興に帯同して京都にいたわけです。争いは10年くらいあったとされていますが、その間ずっと「当事者不在」だったのです。小方も友田も不在の代理戦争です。当事者二人は確かに「神主職」が欲しいのですが、ちょっと外野が盛り上がりすぎていた。それで、大内義興はこの抗争を止めようと現地に派遣した武田元繁は、大内義興を裏切って大暴れする始末。その武田元繁は大内の要請を受けた毛利と吉川が殺してしまいました。
ちなみに武田元繁が死亡する「有田中井手の戦い」は永正14年(1517年10月)のこと。棚守房顕覚書10 東党と武田元繁を参考に。

もはや東西抗争は当初の目的とはなんら関係なく、ただただ治安が悪化しただけ。とりあえず時間をおいて、冷静になれよ、という大内の施策は至極真っ当に思えます。

そこで大永2年(1522年)に治安維持軍として周防国(大内の国)から派遣があった。しかし、戦争が起こりそうもないので、解散してしまいました。しかし、問題は何も解決しておりません。まだまだ続きます。
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