棚守房顕覚書14 大内義興の入京とその後

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棚守房顕覚書14 大内義興の入京とその後

一、大内左京大夫義興(=大内義興)は、永正5年(1508年)辰の年6月18日に京に入り、明くる年(1509年)の8月18日、京都中之島・真木ノ島三ヶ所での合戦に負け、今出川公方(=足利義稙=足利義材=足利義尹)を奉じて、細川右京大夫高国(=細川高国)、畠山××(畠山尚順?)、左京大夫義興(=大内義興)など、その他の大名が各々、京都を退いて、丹波国に下がりました。
(永正8年1511年?)8月22日に公方様の三家、その他の大名・小名の各々が京都に帰りました。連大寺・船岡の合戦で、大内の問田(=大内の家臣)が討ち死にしました。その子息の掃部頭(=掃部寮という役所のリーダー)は力が強かったので、親を脇に抱いて戦いました。大勝利したのは問田掃部頭の類稀な高名のおかげです。能美備前守、陶の家臣の江良藤右兵衛、同じく陶の家臣の深野石見守は、千の家に火をかけ、連大寺・船岡において近江の兵の竹下やその他の数万騎を切り果て、公方様は京都に安座して天下を鎮めました。

時代背景と合戦

永正4年(1507年)、京都では永正の錯乱という室町幕府の重鎮の細川家が跡目争いで大揉めに揉めていました。将軍職を追われていた今出川公方(=足利義稙=足利義材=足利義尹)をかくまっていた周防(山口県)の大内義興はこれをチャンスと考えて、京都に入り、細川高国と組んで、細川澄元と敵対します。以下が大内が京都に登ってからの合戦のまとめです。
永正6年(1509年)6月に如意ヶ嶽の戦い。このときは大内義興・細川高国が勝ちます。
永正6年(1509年)10月に細川高国が単独で近江に侵攻。細川澄元・三好之長を阿波に追い出します。
永正7年(1510年)に細川高国が単独で近江へ侵攻。澄元を支持する地元の国人の抵抗により敗北。
永正8年(1511年)に芦屋河原の合戦、和泉・深井の合戦など。大内義興・細川高国側は丹波に一時的に京都から退却します。しかし、ここで細川澄元が奉じていた足利義澄が阿波国で死亡。
永正8年(1511年)8月に船岡山合戦。大内義興・細川高国側が勝利して、足利義稙が将軍に完全に復帰します。

ここまでが今回のお話です。棚守房顕の文章は歴史背景を調べた上で読まないとサッパリ分からない。

ちなみに大内が地元周防に帰るのは1518年(本によって前後するが)。10年も地元を開けていたことが厳島神社神主の座をめぐる東西対立の一つの要因だった…と棚守房顕は言いたいのかもしれません。ま、実際そうでしょ。
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