棚守房顕覚書12 東西の抗争と上卿

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棚守房顕覚書12 東西の抗争と上卿

一、上卿(ショウケイ)は西方の親類縁者でしたので、親正の次男の検校役の新太郎が五日市(東党)から成敗されました。3月6日上卿家政と親正、孫の親家と父子孫の3人は佐伯郡の能美島へ宿を取り、上卿に問題が及ばないと風聞で聞いて、3月に他の島に渡っていたのを同年の8月に宮島に帰った。その他いろいろのことは書き記すに及ばず。

東西の引き合い
一、このように神主家の後継のことで東西に分かれて引き合い、いろいろのことがあり、事が多くて、書き記す事ができません。

上卿(ショウケイ)

上卿とは公卿が参加する儀式の責任者のこと。
儀式の責任者であり、儀式が神社の運営の中心ですから、上卿がいないと話にならない。神主が不在になり、廿日市のみならず周辺の氏族を巻き込んだ抗争に発展した中では上卿が神主に代わる責任者の状態(最高責任者とは言えなくても重責のある役)。にも関わらず、身内が抗争に巻き込まれて死んだとはいえ、能美島に避難した。ハッキリとは書いていないが棚守房顕は「無責任なことだ」と思ったのではないか。

ところで「棚守房顕覚書11 東西対立と厳島」によれば、矢野・中野・瀬野(全て広島市安芸区)を巻き込んで大きな混乱になったのですが、能美島までは混乱は及んでいなかった…ということになります。矢野・中野・瀬野は参加者であって、中立・無視・無関係を決め込んだ人たちも沢山いたってことでしょう。
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