棚守房顕覚書8 多賀谷氏の暴戻

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棚守房顕覚書8 多賀谷氏の暴戻

一、永正三年?(1506年)寅の年のこと三月十五日の祭礼の夜。倉橋島の船の人が酒に酔って、高聲(大きな声を上げること)をすると、祭礼の警護をする警固衆が諭(サト)したのですが、その船から神前に矢が射られました。

次の日の十六日、倉橋の者は廿日市の河内某と仮屋の鍋一つの使い方で口論になりました。神領衆たちは(河内某に)同意して怒って、倉橋の船16艘と数十人を討伐しました。この中に多賀居という苗字の衆がいて4、5人討たれました。小晦(3月29日)に蒲刈島から、警固船百六、七十艘が宮島にやって来たので、厳島神社の儀式のことや屁理屈を並べ立てて、聞き入れなかったので、社家の神法(神社のルール?)を振りかざすと、敵の船は杉ノ浦に下がりました。そこで博奕尾から来て、西ノ浦、瀧ノ小路、中江、在ノ浦に火をかけました。その時、雨風が吹いていて、(船で来たので強風になるのは怖いので)退却する時に、多賀居兵部小輔は神社の上下のひさしから軽く礼拝して、そのまま乗船したのですが、鳥居の前で兵部小輔を初めとして宗徒が24人が海底に沈みました。

その後、予州から縁類である重見の警固船20艘ばかりが多賀居の討ち死にを聞いて、船で戻ってそれぞれの警固衆に申し入れて、兵部小輔討ち死にについて問いました。すると「自分だけは助かろうと、横楯(船に設置してある楯)の上にまでひしめあき会うほどに乗船しているところに、風が吹いて雨が降って、どうにもならなくなって長浜の沖に沈んでしまった。これを見た警固衆は、命が勿体無いと皆、逃げ帰った」と答えました。
その後は蒲刈島は荒れ果て、人はいなくなりました。

解説

前のページの棚守房顕覚書7 西回廊の消失から遡ってます。ややこしい。ただしこの永正三年というのは注釈ですから、本当かどうかは分からない。1506年とすると房顕はこの時12歳。かなりの大事件だったようです。

この事件の後、厳島近海で死んだ怨霊が船を沈めるということで供養を毎年することになった。それが多賀江念仏であり、現在の「宮島踊り」です。

多賀谷と瀬戸内

さて、多賀谷氏は古くは南北朝の時代には伊予国のあたりを仕切っていたよう。当然、瀬戸内海の島も仕切っていました。倉橋島や蒲刈島も勢力範囲内だった。その彼らがある日、厳島神社にやってきて奉納舞を見たが、これにケチをつけた。棚守房顕覚書では「矢」と書いてありますが、厳島図絵によると「悪口」とあります。ニュアンスとしては一緒でしょう。

その結果、多賀谷氏たちは死んだ。
これは当然、厳島の神の祟りであるという感覚があったはずです。

ちなみに倉橋島の多賀谷氏は毛利に滅ぼされてしまいます(ただしこれは1550年あたりの話)。ところが蒲刈島の多賀谷氏は毛利に仕えて朝鮮出兵に参加していたようです。つまり滅ぼされたといっても、分家はしっかりと残ったわけです。

博徒尾のルート

毛利元就は厳島合戦(1555年)で包みが裏から上陸し、登山道に入って博奕尾(バクチオ)から、厳島神社付近までたどり着きます。蒲刈島の警固衆が通った道とほぼ同じなんです。おそらくこのルートは一般的で、誰でも知っていたってことでしょう。もしくは厳島合戦の記述が蒲刈島の警固衆の丸パクリか。
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