道芝記内の引用…野坂将監記 厳島神社の縁起

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野坂将監記 厳島神社の縁起

昔、天照大神が勅命して、市杵島姫神を西海を守らせるために豊葦原中津国(トヨアシハラナカツクニ=日本のこと)に天から降臨させました。そしてこの島(=現在の宮島)をご覧になりまして、神が垂迹(=現世に降り立つこと)すれば、永く繁盛する土地だなと思いました。
その土地に一人の翁(=老人)がいました。市杵島姫神はこれを呼び寄せて、
「お前はどこの者か?」
と尋ねると
「所の者です」
と答えました。

また、ある一人が釣りをしていました。
そのものを呼び寄せて市杵島姫神が尋ねると
「私は佐伯くらもと(=佐伯鞍職)で、天地開闢からこの島の主です」
と答えました。市杵島姫神は
「この所を、吾に貸せ。
宮に居住しよう」
と言いました。
翁は市杵島姫神の姿をうやうやしく見て、すぐにその土地を奉じました。そしてその二人の翁は市杵島姫神にお仕えしました。現在の所氏、佐伯氏は全て、この末裔です。すぐに佐伯鞍職は大元大明神(大元神社の神だろうと思われる)と名付けました。
この時、五烏(ゴガラス)という鳥が市杵島姫神の部曲(=私有民=ここでは従者という意味)として仕え、三女神(=市杵島姫神を含む宗像三女神)が島に鎮座した後、平良村(=現在の広島県廿日市市平良)に飛び去り、岩木という翁にこの土地を借りて垂迹(=現世に降り立つこと)し、速田太明神がコレです。岩木の翁は今の岩木権現です。(厳島神社の宮殿造営は推古天皇の瑞正5年。

解説

上記の一文は道芝記にある一文。つまり道芝記の中の引用。

この野坂将監記は棚守房顕の別名で、当然ながら江戸初期に書かれた本です。房顕が書いた本はいくつかあり、そのうちの一つとされます。しかし、本当に棚守房顕が書いたのかはどうでしょうか。棚守房顕覚書とかなり記述が違いますよ。

で、この記述を読む限り、厳島に来島した神…市杵島姫神は、所氏と佐伯鞍職によって鎮座したのですが、その鎮座した時の名前が大元太明神であり、これは自然に考えて厳島神社ではなく大元神社です。しかもそれを厳島神社を権力の根拠としている棚守房顕が書いたということは、「厳島神社の元祖は大元神社」という認識があったってことでしょう。ただしこれを本当に棚守房顕が書いたのかはなんとも言えないです。

所翁

所氏は大元神社と関わりがあり、大頭神社の宮司としても関係している人物の血筋。この縁起を読む限りは、厳島神社の創建に関わっている。ところが現状では所氏はあまり重要人物ではないです。これが「元々から所氏が創建に強く関わっていたが、長い歴史の中で脱落していったが、伝承では残っていて、それが取り上げられた」のか「所氏の身内が先祖を過大評価して記述した」のかは、何とも分からない。

岩木翁と速田神社

五烏が飛んで行った岩木の翁の土地ってのが現在の速谷神社です。
ややこしい話なんですが、日本後記(8世紀末から9世紀の出来事をまとめた本)や延喜式(11世紀の本)には速谷神社というのが安芸国の一宮(一番立派な神社)でしたが、江戸時代には速谷神社というのが安芸国にはありませんでした。そこで名前の近い「速田神社」を「速谷神社」としました。実際に「速田神社」=「速谷神社」とは限りませんが、同一である可能性は高いかな?と。
ところで現在速谷神社の敷地内に岩木神社という小さな社があります。この岩木神社は速谷神社の外にあったものを引っ越したものです。

五烏

宮島の御烏喰式(オトグイシキ)の元ネタとなったカラスの伝承でしょう。

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