棚守屋敷跡

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棚守屋敷跡

まとめ
●戦国時代以降に権力を握った棚守氏の屋敷跡。
●1599年に毛利によって建てられた。棚守が代々、厳島神社の権力者として毛利が認めた物証。
●現在は坂・石段・石垣しか残ってない。
●100部屋、1000坪あったらしい。
●宮島の歴史ではかなり重要なものだけど、観光資源としては全然。

棚守とは?

厳島神社の神職の代表的な氏族の棚守の屋敷跡です。藩主といった「偉い」人が厳島神社に参拝するときは、ここに宿泊していました。
棚守は佐伯氏の中の一族の野坂氏のことで、棚守というのは本来は「役職名」で、宝蔵を管理する役職の名前です。神官である佐伯氏を補佐するのが「棚守」です。役職上は決してトップではないはずなんですが、戦国時代の棚守房顕(タナモリフサアキ)の時に大内義隆や毛利元就・毛利輝元の後ろ盾を得て、実質ナンバーワンになって以降、代々、厳島神社のナンバーワンです。現在の神主(野坂氏)は棚守の子孫です。

現在は石垣・石段しかありません。上に見える家は普通に人が住んでいる家です。
●ただし、住んでいるのは野坂という現在の厳島神社神主家。

なぜここに棚守の屋敷が??
棚守房顕は本来は宝蔵を管理する下っ端でしたが、周防の大名の大内義隆(と陶隆房)や毛利元就とつながることで、実質的に厳島神社の権力者となったのですが、本来下っ端の彼が出世したことで、追い抜かされた人たちは当然ながら気に食わない。それもまだ、棚守房顕は納得行ったのです。彼は大内や毛利ととても親しかったですからね。しかし、棚守房顕の子供の棚守元行が後釜になるぞとなると話が変わってきます。どうして元行が権力者なんだ!どうして俺たちは従わなきゃいけないんだ!と反発し始めました。
ところが、毛利としては棚守が権力者である方がよかった。なぜなら、戦国時代に厳島神社の神主の友田興藤が謀反したからです。棚守は「儀式至上主義」の人間で野望を抱かないし、何より優秀だった。毛利としてはすでにうまく行っているもの(謀反の起きない状態のこと)を壊す意味がない。そこで毛利は棚守がこの島の権力者である証として1599年に山を切り開いてまで、この巨大な棚守屋敷を作りました。
部屋は100個。広さは1000坪。上卿屋敷など遥かに及ばない広さです。長い階段は一段上に棚守屋敷が鎮座していたってことと、後から作ったためです(後から作ったってことは下っ端の棚守が高級官僚住居の通りである滝小路に割り込んだってことになる)。
●現在のちなみに棚守屋敷跡に棚守が移り住む前は中江(柳小路のあたり)という場所に家がありました。
●棚守屋敷跡があるのは滝小路で、滝小路は厳島神社の神官などが住む場所…いわば高級官僚が住む場所だった。そこに舞踊の家で、宝蔵の管理者に過ぎないペーペーのはずの棚守が巨大な家を毛利に贈られることの意味は大きい。
●棚守屋敷は棚守が毛利から「子々孫々まで厳島神社の権力者だ」とお墨付きをもらった物証です。歴史的な意義はかなり強い。

観光資源としてはねぇ…

棚守は宮島の歴史の中では非常に重要な人物ですから、意味はあるんですが、観光で訪れた人にとっては「だから何?」って感じでしょうね。これなら「林家住宅(上卿屋敷)」の方が見る価値はあります。ちなみに林家住宅(上卿屋敷)は日曜日と祝日しか解放していません。

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