陰徳太平記

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陰徳太平記(イントクタイヘイキ)とは

81冊と1冊の目次からなる本。室町幕府13代将軍足利義輝(1507年)から戦国時代(1598年)までを描いた軍記物。82冊は多すぎる。もっと少なかったら人気になっていたのかもしれない!と言われる。岩国藩が出版していて、内容が検閲されているため、内容は毛利家に都合のように変更されているとされる。著者は香川正矩。その息子(次男)の香川景継(=梅月堂宣阿)が加筆、編纂した。元禄11年(1698年)岩国領の検閲を経て、宝永3年(1706年)出版許可、享保2年(1717年)出版。

現存する陰徳太平記
現存するのは山口県文書館あるものと毛利家に残るもの。文書館のものは著者である香川家の写本。元になったものは昭和初期に焼失。毛利家に残っているものは毛利家に献上されたもの。毛利の分家の吉川家が収蔵していたが、震災で焼失。

陰徳太平記の裏側

毛利は最初、大内の部下でした。しかし、大内が芸術文化への投資にハマり、また散財が激しく、そして同性愛にハマったこともあって、大内が内部崩壊していきました。その大内義隆を部下の陶隆房(のちの陶晴賢)が謀反を起こして殺害。その陶隆房を倒し、安芸国を手中に納めたのが毛利でした。
大内義隆
大内は内部でかなり軋みがあったのですが、対外的には優秀な殿様に見えていました。大内は歴史もありましたし、寺社に対しての投資というか援助を行っていて「末世の道者」とまで言われる人物でした。これを殺した陶隆房はとんでもない野郎だ、というのが世間の評価で、この陶隆房を打ち倒したことが毛利の大名としての「根拠」でもあったのですね。

毛利家の栄光と挫折

毛利は分家?の小早川にしても吉川にしても戦国を代表する武将で、元就は歴史的な知謀の士、一族は非常に優秀な人間ばかりでした。ともかく戦国時代の終わりには毛利は中国地方のほぼ全域を牛耳る大大名でした。ただ、秀吉の重臣であったことから、徳川幕府に目をつけられて、江戸時代になると長州に押し込められた一大名になり果ててしまいました。それでも広い方なんですが、過去に比べるとね。陰徳太平記にはそういう輝かしい過去の栄光を思う毛利家の思いが詰まっている訳です。まぁ、多少の誇張があっても、致し方がないというべきか、許す気持ちにもなるでしょう。

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