佐伯景弘は鎌倉幕府から宝剣探索の命を受けている

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佐伯景弘は鎌倉幕府から宝剣探索の命を受けている

まとめ
●平家滅亡時1185年の厳島神社の神官の佐伯景広は、鎌倉幕府から宝剣(=俗に言う三種の神器の一つ、草薙の剣)の探索を命じられている。
●壇ノ浦の合戦時に宝剣は失われた。
●三種の神器を持っているものが正当な天皇、という感覚があった?
●佐伯は自ら宝剣探索を申し出た。
●佐伯は明らかに平家と関わりの深い人物。
●関わりが深いが、平家とは一線を引いていた可能性もある。
●佐伯が宝剣の場所を知っていたのかは分からない。
●宝剣は結局、見つかっていない。

壇ノ浦の合戦で失われた宝剣

壇ノ浦の合戦で源氏は勝利し、平家は滅亡しました。「平家物語」の中では当時の厳島神社の神主である佐伯景弘は、平家方として合戦に参加した、とされています。壇ノ浦では三種の神器のうちの一つ「宝剣(=草薙の剣)」が海中に沈んでしまいました。この神器がないと天皇が即位したとは言えません。まぁ、結局見つからないんですが、ともかく鎌倉幕府も、のちの後鳥羽上皇も必死になって宝剣を探したのです。

佐伯景広は宝剣を探す

その宝剣捜索に佐伯景弘も駆り出されています。いや、正確には「佐伯景弘が捜索を申し出た」のです。まず、第一の問題は、佐伯はなぜ捜索を申し出たのか?ということ。第二の問題は、誰が見ても「平家方の佐伯」が、壇ノ浦合戦後も生き残り、鎌倉幕府の庇護を受けることができたのか?ということです。

佐伯が捜索を申し出たのは「何か知っていた」か、「何かを知っている!としないと、殺される」という状況だったのかもしれません。ただ、後者が理由の場合、結局、宝剣は見つかっていないのだから、佐伯は殺されないと辻褄が合わない。
●佐伯と厳島神社は平家と関わりが深かった。しかし、だからと言って「平家側」だったとは限らない。そもそも、平家は一枚岩ではなく、例えば、平頼盛は鎌倉から厚遇を受けている。「佐伯は平家側」という認識も果たして正しいかどうかは怪しい。
●佐伯は殺されず、その子孫も生きていて、鎌倉時代に厳島神社の神主から追われています。しかし、佐伯家自身はその後も神社と関わりがあったようです。
●鎌倉時代には藤原氏に神主の座を奪われますが、この時代は任命されても、実際に赴任していたかは怪しい。名前は藤原だったが、神社の権力はその後も佐伯が握っていたのかもしれない。

佐伯は何かを知っていたか?
佐伯は何かを知っていたのでしょうか。
佐伯景弘は厳島神社の神官なだけではなく、おそらく海賊・水軍・貿易船の関係者で、そこから情報が入ったのかもしれません。しかし、海に沈んだものを引き上げるほどの情報なんてあるとは思えません。私は宝剣を「偽造」するつもりだったんじゃないかと思いますが、まぁ、根拠のない妄想です。

佐伯はなぜ鎌倉幕府の庇護を受けられたか

もう一つ、佐伯はなぜ壇ノ浦後のも生き残り、鎌倉幕府に庇護を受けることができたのか?です。厳島神社は鎌倉幕府から援助を受けて、修造をしています。平家と結びついていた厳島神社を修造するって変じゃないですか??

可能性の第一は佐伯と平家は「強くは結びついていなかった」のかもしれない、ということです。「厳島神社は平清盛が作ったのではない、ならば佐伯が作ったのではないか?」と最近言われますが、しかし、厳島神社の構造はどう考えても「都向け」の寝殿造りを模しています。佐伯だけで仮にあの海上神殿を「作る」ことが出来ても、「発想」はできないでしょう。仮に「発想」できても、寝殿造りであるということは京都の「技術」がないと作れない。だから佐伯が作ったにせよ、都の誰かが神社の造営には深く関わっているはずです。

となると、やっぱり平家が最有力なのですが、佐伯は平家と結びつく前から、都の要人にアプローチを掛けていました。なぜ、そんなことをしたのかは、今は分かりませんが、佐伯はこの時点でもしかすると朝廷と結びついていたのかもしれません。

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