安国寺恵瓊

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安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)

まとめ
●出自には曖昧なところがあるが、安芸武田氏の血を引く。
●戦国時代に毛利によって安芸武田氏が滅ぼされた。その時、幼少だったため逃げて出家した。
●出家した名前が安国寺恵瓊。
●大名の間に立って交渉する僧侶として活躍。
●関ヶ原で西軍。敗北し斬首。
●宮島の千畳閣を豊臣秀吉に命じられて建築するも、関ヶ原で死亡し、建造は中途で止まっている。

出自

安土桃山時代の臨済宗の僧侶。安芸武田氏の一族の武田信重の子供とも、伴繁晴の子供とも言われます。伴繁晴も安芸武田氏です。武田はそもそもは清和源氏の源頼義(988-1075)の三男の源義光(1045-1127=別名が新羅三郎義光)が武田になり、その武田が関東の上総国と若狭国と安芸国に分かれました。ちなみに関東の武田氏が後々にあの有名な武田信玄につながることになります。安芸国の武田氏は戦国時代まで中国地方に残り、その武田氏が1541年に毛利元就によって滅亡させられます。その安芸武田氏の遺児が過信に連れられて逃げて、安芸の安国寺(不動院)で出家したのが「安国寺恵瓊」です。そういう混乱上来だから安国寺恵瓊はイマイチ、誰の子供がハッキリしないわけです。
●安国寺恵瓊には商人の子供という伝承もあります。武田氏の末裔というのは「噂」で史実ではないかもしれない。

出家し、修行後に毛利家に仕える

安国寺恵瓊は京都の東福寺の竺雲恵心で修行しました。竺雲恵心は毛利家と繋がっていました。竺雲恵心と毛利隆元の手紙のやり取りが残っていて、どうも毛利隆元の悩み相談を受けていたのです。毛利隆元は嫡男で、毛利家の後継なんですが、優秀な父と比べてかなりの自信喪失で、このままじゃ毛利家は断絶だ!って考えていて、それがかなりプレッシャーだったようです。そのくらいに竺雲恵心は毛利家と繋がっていまして、安国寺恵瓊はその関係で毛利家の外交僧として仕えることになります。

織田と毛利の間を斡旋し、豊臣秀吉と毛利輝元の講和に奔走した。
毛利輝元が豊臣秀吉の五大老となったことから豊臣秀吉とも関係を深め、千畳閣の建造を命じられます。

伊予6万石に封じられたとありますが、諸説あります。関ヶ原の戦いの際に西軍に属して(毛利輝元は西軍の総大将)、徳川に捉えられて京都で斬首されました。斬首は1600年です。
千畳閣は建造が止まり、現在も頓挫した状態で天井が抜け、壁もありません。
●もしも安国寺恵瓊が武田氏の子孫ならば、領地をもらったら即、「安芸武田氏再興」を果たせばいいのです。どうも、商人の子供というのが史実っぽい。

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