陶晴賢の墓(廿日市・洞雲寺)

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陶晴賢の墓(廿日市・洞雲寺)

まとめ
●厳島合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢(陶隆房)の墓。
●廿日市の洞雲寺にある。
●廿日市駅からすぐ近く。
●江戸時代の途中から資料に登場するので、それ以前から洞雲寺に墓があったのかは分からない。というか怪しいかも。
●宮島には墓がないので、変遷して洞雲寺に流れ着いた可能性はある。

陶晴賢の墓

廿日市の洞雲寺にある陶晴賢の墓。陶晴賢は戦国時代の武将で、厳島合戦で毛利元就に敗れ、首実検された人物。首実検というのは「誰が誰を仕留めたか?」とチェックする作業で、これをしないと合戦後に論功行賞が出来ないのですね。
その首実検を行ったのは、「厳島」です。
厳島で首実検を行ったということは厳島に遺体があった。
それが後には洞雲寺の墓にある。
なんか不思議ですよね。

本物か?

厳島合戦は実際にあった合戦なんです。そこのところは『棚守房顕覚書』、村上水軍の村上喜兵衛の証言をまとめた『武家万代記(三島海軍家軍日記)』、川ノ内警固衆の賀屋市助の証言をまとめた『万代記(厳島合戦記)』、吉川家臣の二宮俊実・森脇春方が書いた『二宮俊実覚書』『森脇覚書』にもあるので合戦自体は事実です。ただ、その合戦の細かい経緯に関してはに香川景継が編纂・執筆した「陰徳太平記」が主になっています。この陰徳太平記というは面白んですが、出版したのが毛利関係者で、都合の良いように改竄がされているというのが定説です。
陰徳太平記はそもそも軍記物で、史実を基にした「フィクション」小説だと思った方がいいです。

で、その合戦の敗北者である陶晴賢の墓が廿日市の洞雲寺に現れるのですが、廿日市の佐方村の記録には墓の記述が無く、芸藩通志(1825年)に初出なんですね。そう考えると陰徳太平記があって、厳島合戦が評価され
●宮島が江戸時代に観光名所として有名になり観光客が増えて厳島合戦も評価されたんじゃないかと。

それで、陶晴賢の墓を「観光目的」に設置したのかもしれません。

本当に陶晴賢は眠っているかもしれない

なんてことを書いているんですが、そこに陶晴賢が眠っていないとも限らないのです。どこかにひっそりと埋葬されてた陶晴賢を、宮島の観光地化によって厳島合戦が評価されて、陶晴賢が注目されるようになった。それで洞雲寺に移設した。その可能性もあります。

その時、陶の墓はどこにあったのか??
少なくとも陶の墓自体は宮島にはなかったと思います。
なぜなら宮島は穢れを嫌うからです。

宮島には現在でも墓がありません。

宮島が穢れを嫌うというのは枚挙にいとまがないのです。
例えば、毛利絡みなんですが、毛利元就は息子毛利隆元を殺害したのではないかと、和智誠春・湯谷元家を疑い、厳島神社の本殿で二人を殺してしまいます(1568年)。その後、厳島神社の修造が1571年に終わります。毛利が厳島神社を穢したから、神社を立て直したというのはあるのですね。
●厳島合戦時にも厳島神社は血で穢れたとも。神社の修繕はこれもある。
大聖院で死亡した任助法親王も宮島ではなく対岸の宮島口に墓が造られています。参考…任助法親王の墓


観光目的ならば尚更、墓は宮島に立てればいいと思うのです。合戦の舞台となった宮尾城(要害山)には陶晴賢を祀った「今伊勢神社」があるんです。別に宮島にあってもいい。色々と考えると、宮島ではない場所…おそらく廿日市には陶晴賢の墓が以前からあったんじゃないでしょうか。しかし、江戸時代になり、宮島が観光地化し厳島合戦が注目されるまで顧みられなかった。

陶晴賢の墓を洞雲寺が引き取った。
なぜなら、戦国武将で未練を残して死んだのです。怨霊が怖い。
墓の近くに住んでいる人は気が気でないでしょう。
それが江戸時代の後期に突然、陶晴賢の墓が現れるカラクリってところじゃないかなと思います。

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