広島城は黒いから鯉城か、鯉にちなんで黒いか。

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広島城は黒いから鯉城か、鯉にちなんで黒いか。

今でこそ鯉は赤と白が基調なんですが、本来の鯉は真っ黒です。鮒(フナ)みたいなものですよね。だから広島城は黒い。
まとめ
●広島の西には己斐という土地がある。
●己斐は神功皇后が鯉を献上したことから名付けられた地名。
●鯉は水が豊かな象徴。
●広島は、水のおかげで豊かだった、という認識があった。
●それで広島城を鯉に引っ掛けて「黒い鯉城」にした、のだと思います。

鯉と広島

西広島には「己斐(コイ)」という土地があります。この土地に神功皇后が訪れた時に、地元の人が鯉を献上しました。神功皇后はその鯉の見事さに驚いて「オォ!鯉!」と言ったことから、この土地は「鯉」と呼ばれるようになり、のちに「好字二字令」という「土地の名前は二文字で表記するようにしなさいね」という法律によって「己斐」になりました。

この鯉が広島城が「鯉城」と呼ばれる所以なのですが、ちょっとわかりづらい。

この説話の、「神功皇后がどうこう」というのは後付けで、そもそもこの地域では鯉が特別視されていたのだと思います。一回でも川や池が枯れれば、そこに住んでいる鯉は死んでしまいます。大きな鯉が育つということは、その土地の池や川は干ばつで枯れることが無かったってことです。よって、「見事な鯉」とは「この地域は水が豊富だという証拠」です。川が枯れれば農業も漁もできない。大きな鯉は「水の豊かさ」の象徴だったのでしょう。
これは西広島に限りません。広島市内の猿猴橋町の猿猴が「猿のように毛むくじゃらの水神(=河童)」のことであるように、広島は水が豊かだというのが昔からの共通認識だったのでしょう。水が豊かだからて農業もできるし、何より水路を利用して交易が盛ん。その繁栄を支えているのが「水」、という意識があったのでしょう。

鯉城へ

だから鯉に引っ掛けて鯉城にした。
広島城は現在、完全に内地なんですが、築城当時、割と近いところに「海」が見えていました。また周囲には現在と同じように川に囲まれていましたから、広島城が黒いから「鯉城」ではなく、川・海という古来からの恩恵と、豊かさの象徴である「鯉」に引っ掛けて「黒い城」を作ったと考えた方が自然だと思います。

その後、鯉城に引っ掛けて広島カープが生まれるのですが、その時代には「鯉とは赤い」というイメージが出来上がっていたので、チームカラーは赤になりました。

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